立ち上げにおける現状認識4―Webメディアとしての学術

最後になぜWebメディアでこうした学術の価値というものを述べているのかという点に関して述べておきます。インターネット上では日々、誹謗中傷や批判が横行しているのは周知の事実かと思います。皆が皆そうではないですが、少なくともそうした発言や言説は流布し目立つという意味で。こうした感情のぶつけ合いはあまり建設的な議論には発展しないと認識しています。以前、話題になった「保育園落ちたから日本死ね」という言論が大きく拡散され、ひとつのきっかけとなることもないわけではないですし、基本的に言論の自由は担保されなければそれは行き過ぎた正義による暴走です。ですから、必要になるのは強制ではなく、発信者・受信者ともにリテラシーを身につけることでしょう。ただ、「正しさ」を問い提示し、批判的に各々で考え、時に議論をしていくしかありません。

2016年4月の立ち上げ当初における現状認識です。2017年度中の現状認識も更新予定です。

二つの批判

一般的に認知されている批判には二つの側面があります。

①「批判≒非難」

一つは、「批判≒非難」という図式。「批判」とは、検討を前提に行うものであり、責め立てる「非難」とは区別する必要があります。「批判」をネガティブに捉える言説もあり、両者を明確に区別して用いることはいつも出来るわけではありませんが、これらの認識に立たないと後に述べる「ポジショントークのやりあい」に陥らざるをえないでしょう。

②本来の建設的な批判

二つ目の批判は、本来の批判の意味である「相手の主張の背景にある目的を鑑みた上で、足りないところがあれば指摘し、議論を行い、改善を図るもの」です。これは先ほど述べた本来の学術としての在り方でもあります。各々の主観的なポジションだけに引きこもっているだけではなく、どこまでが「正しく」、どこまでが「正しくない」のかを議論していかなければならない側面が、システムとして構築された現代社会においては必要です。 そもそもではありますが、主義・主張において完全に主観を脱しきることは大変難しいことであり、そのような状況はほとんど稀、一般的には不可能と言っても過言ではないと言えます。

学問においては、なるべく論理的・客観的・普遍的なものに「近づく」ために査読システムやそれに裏付けられた先行研究といった蓄積があります。もし、部分的に間違っているものが前提にあるなら、その内容自体の根幹も揺れてしまいます。ここに応用学問にはない、根底を支え、また疑う基礎的な学問の価値だとも言えるのではないでしょうか?当然、どこの視点に立ち事象を眺めるのかによって違いもあり、すべてが「真実」を語らなければならないのが学問ではないはずです。そういったジャーナリズムに近い学問もあると考えています。ジャーナリズムとアカデミズムはそうした批判的精神を内在的に持ち合わせたものであり、部分的に類似しているものです。

横行するポジショントーク

最初に述べておきたいのが、厳密にはポジショントークから逃れることはできないという点です。哲学者ジョン・ロールズが正義を考える上で「無知のヴェール」の状態を思考実験したように、生まれた時点で両親という最小の社会に埋め込まれた存在としてあるのが人です。ですが、ポジショントークに陥ってしまうことに自覚的でなければ各々の主張を好き勝手に述べているだけになってしまいます。『人間の条件』を著した哲学者ハンナ・アーレントが言うように、人間は政治的な生き物であるならば、政治的活動から逃れることはできないでしょう。両親のもとに生まれた「私」という存在は、必然的にその社会に属し、政治的なシステムや文化的慣習にさらされます。

民主主義を機能させる

民主主義をただ礼賛するわけではありませんが、もし政治的な活動から逃れることができないのならば、現在多くの日本で取られているような民主主義を実現するためには、一部のエリートが議論を行えればいいのではなく一般大衆に対する啓蒙も必要であると言えるのではないでしょうか?そうでなければ、本来の民主主義は機能せず(理想論ではありますが)、形だけの政治的に横行するポジショントークに踊らされてしまうだけになってしまいます。

情報の確保や信頼性の変容

インターネット上に登載される情報という概念を捉えた時、情報の確保先や信頼性というものが以前とは変容してきています。これまでは「新聞」、「ラジオ」、「テレビ」などといったマスメディアが情報を一般に向けて発信していました。ですが、今はネットメディアの拡大やSNSの登場により、情報をマスメディアから取るというより、ネット上の信頼を寄せている相手から主に取るというように変容してきています。これはTwitterやFacebook上のタイムラインを考えると分かりやすいかと思います。同じ情報源であっても、たまたまよくも知らないフォロワーが発信した情報とその分野で信頼の置いている専門家や知人が流した情報では価値が異なります。

こうした複雑な情報のやり取りはこれまでの「マスメディア対一般」という構造に比べ分析が難しいことは間違いないでしょう。ということは、分析による自浄作用が難しくなってきているということでもあります。これは偏った情報に翻弄された人間が生まれやすくなったとも言えるでしょう。