立ち上げにおける現状認識3―高等教育の意義の不在化

理系分野も文系分野も、突き詰めていけばそれらは厳密に分けられるような世界ではないのはここまで描いてきた以上、明らかでしょう。もちろんまだまだ断片的な理解、また描写であり、そうではないという立場もあることかと思います。かつて「ソーカル事件」もありましたが、一面的な理解や個人的な観点・思想のみに閉じこもり判断を曇らしてしまわないようにはどうしたらいいのでしょうか?社会的な情勢としても現在は最早一国だけでは解決のしようのないさまざまな問題が起きています。そうした現状に立ち向かうには何が必要なのでしょうか?

これら問題と向き合っていくには、ポジショントークだけに陥らず(ポジションを持たない者などいない)に批判的な吟味・検討を行っていくこと、また同時に政治的な判断を下す人が必要だということです。そして、そこには「如何に生きるべきなのか?」という倫理的な問いかけが常に横たわっています。

そうした中、現在の日本では「高等教育の意義の不在化」が起きており、それらを指し示す一つの媒体として『Share Study』を立ち上げました。そのため、このメディアの主な対象は高校生、大学生、院生といった学生一般となっています。

2016年4月の立ち上げ当初における現状認識です。2017年度中の現状認識も更新予定です。

学術・学問の意義の不在化

まずは簡単に学術や学問をどのように認識しているかを説明いたします。学問とは本質的(そんなものがあるかどうかは立場による)には、「愛智」としてのphilosophyであり、必ずしも社会的な要求に応えなければならないものではないと考えています。つまり、必要だから行うのではなく、好きだから行っている側面もあるということです。こうした知的好奇心が根幹的に研究者たちを動かし、さまざまな発見がなされてきたのであり、それが結果的に、俗にいう社会に還元されているのだと思っています。今はあまりにもそうした社会との関係に縛られ、学びの楽しさや追求を阻害している空気感―これが「文系軽視」をもたらすひとつの要因だという仮説―に支配されすぎているのではないでしょうか?そうした空気感に抗うことがこの『Share Study』を立ち上げた大きな要因でもあります。当然、社会との関係がないわけではありません。それは先ほども政治的なものの関係の中で述べた通りであり、学術的な活動を公に維持していくには一定の努力が必要なのもまた事実です。

学術とは何か?

学問やその方法論である学術がどのような意味を持つのかをまずは論じなければなりません。学術とは大きく言えば、ある研究対象や研究領域に対し仮説を持ち、客観性や論理性の検証を絶えず行い、新たな知見や技術の発見、解釈をするものです。その理論的な側面にも、どのようにして客観性や普遍性を明らかにする論理性を持ち得るのか?ということが絶えず批判対象として開示されています。つまり、「なになにが正しい」ということを主張することだけが学術なのではなく、それらはどのようにして担保されるのか?ということが常に問われるということです。これが学術の基本的な内容でしょう。論文の査読制度などがその具体的な取り組みだと言えます。

学術の価値

学術の価値を大きく分けると「理論的な学術の価値」と「実学的な学術の価値」に分けられます。

理論的な学術の価値

理論的な学術の価値とは、哲学や数学といった基礎学問を指します。これら領域は多くの分野で用いられ、様々な形で応用されています。ですから、これら学問をないがしろにしてしまうことは実学的な学問のあり方をも軽視するものだとは言えないでしょうか?

実学的な学術の価値

実学的な学術の価値とは科学や工学、経済学といった基礎学問を基にして発展した応用学問です。学問の価値を論じる時には、どのレイヤーをどのような政治・社会的な立ち位置から論じられているかに注意する必要があるでしょう。この『Share Study』では、「理論的な学術」ならびに「実学的な学術」を包括した学問を指しています。つまり、「どちらが」ではなく「どちらも」の価値をひとえに学術として大切であることをうたっています。

学生に学術の価値が浸透していないと思う理由

このような学問観に立った時、高等教育の場として存在する「大学」に在籍する学生はどのような状況に立たされているのでしょうか?一つに大学で学ぶことが多様化していることが挙げられます。

就職学校としての大学

日本では大学全入時代と呼ばれるように以前にも増して数多くの学生が大学に進学するようになりました。ですが、大学に進学する理由が学問を学ぶためというよりは社会に出る前のモラトリアムを満喫するためといった言説がささやかれるように、かつてのエリート層のみが高等教育を教授するという構造とは大きな変革がなされています。そこで大学で期待されるのは専門的で実学的な知識や技術、または人脈を持ち、就職していく足踏みとして利用されるというわけです。

これらは現在の大学の一つの在り方であり、一概に悪いというわけではありません。目的はどうであれ、学びへの門戸が開かれたこと自体は歓迎すべきことかと思います。そうした曖昧な中でも、ある人はモラトリアムに溺れ、ある人は学問への目覚めを経験するのでしょう。そうした玉石混交としたひとつの社会として「大学」という場が存在しているのが現状なのだと認識しています。しかし、「就職学校」としての大学で学ぶことは基礎的な学び―論理性や客観性をどのように担保するかという一種の基礎的思考技術―を疎かにしてしまい、実社会に出て問題に直面したときに応用が効かないという可能性はあります。これらは逆に、学問としての価値観のみを信仰するものにとっても同様なことが言えますが、どちらかに偏り過ぎることなく多角的な思考と判断力を身につけることは、実社会においてであれ学問としてであれ、重要なスキルのはずです。

大学における学問の意義

こうしたことを踏まえると大学における学びとは大きく、「深みのある学びの方法を応用していくこと」と捉えられるかと思います。これまでの中等教育とは違い、大学とはあくまで学問を学ぶところであるならば、こうした学術の価値を理解し、身につけることの意義を理解していくことが高等教育における目標としてのひとつの指針になるのではないでしょうか?つまり、具体と抽象の行き来を知り、知識そのものではなく多角的な視点の持ち方を身につけることです。大学で学ぶことは直接的に社会に出て役立てられる可能性は大いにありますが、学術を学ぶ過程で論理性を身につけ、「具体と抽象」を行き来することで一般化し、個々人の活動に活かすことは十分に可能なことだと思います。

もしそうした学問としての意義を感じられないのであれば、大学に来るのではなくプログラミング言語を学ぶなどといったスキルを身につけることも一つの手段です。若者みながみな、こうした学術を身につけなければならないのではなく、高等教育としての学びでは何が大切なのかという点に関して、学術を身につけることは一つの大きな価値であるということを述べるのにあくまでとどめておきたいと思います。