立ち上げにおける現状認識2―理系分野による文系分野への接近

ここまで文系を軽視する風潮がどのような社会情勢から起きているのかを抽象的、また大ざっぱに述べてきました。ですが、文系だけを擁護するために『Share Study』を立ち上げたわけではありません。基礎的学問、応用的学問に関わらず、学ぶ・研究するという活動の意義を見出していきたいという趣旨のもとに開設しました。そこで、次に理系分野でも文系分野へと接近している現状(逆も)について、5つの例を挙げ大ざっぱにですが述べていきます。

2016年4月の立ち上げ当初における現状認識です。2017年度中の現状認識も更新予定です。

例1:数学「ゲーデルの不完全性定理」

ゲーデルの不完全性定理とは、数学の世界では「真理」と「証明」が同等でないことを数学的に証明したものです。つまり、数学の世界である公理系では「汲みつくせない」真理が存在することが明らかになりました。したがって、すべての数学的な「真理」を証明するシステムは永遠に存在しないことを示しています。理数系の基礎的な理論を築く数学においても、絶対的な答えというものを策定できないということでもあります。実学的なものを支える数学でさえも、突き詰めれば「真理とは何か?」という哲学的な問題に接近していきます1)ただし、正しい答えが存在しないということではなく、数学的な体系としても統一的な真理を描くことができないと証明されてしまっただけであり、当然、何かしらの前提を策定することによって解を導くことは可能であり、「なんでもいい」といった相対主義を主張したいわけではない。

例2:物理学「ハイゼンベルクの不確定性原理」

物理学者のヴェルナー・ハイゼンベルクが発見した不確定性定理では、人間の観測には越えられない限界があることを指し示しています。ニュートン力学からアインシュタインの相対性理論がパラダイムの転換をしたように、マクロ的な観測からミクロ領域への観測に移った時にも量子力学がパラダイムの転換を起こしました。ミクロの世界ではあまりにも観測の対象が小さすぎるために、測定のために用いる電磁波そのものがその対象を乱してしまいます。そのため、粒子の「位置」と「運動量」の両方を完全に測定することはできないことが明らかになりました。さらに、本来的に電子の位置と運動量は決まっているのではなく、さまざまな状態が共存しており、その状態を観測することになるのかは決まっていないということも表しています。これらは科学の一種の限界として直面している問題でもあります。当然、もっと厳密な理論やそうではないという考え方もありますが、ゲーデルの不完全性定理とハイデルベルクの不確定性原理の二つの理論は崩されているわけではありません。そして、こうした量子力学的世界はさらに哲学に近い観念的な考えをもたらしつつあります。

例3:物理学「人間性原理」

この宇宙にはあまりにも人間が生まれるのに都合がよく出来過ぎていることから、人間を中心として宇宙が存在しているという「人間性原理」が登場しました。ですが、すべてこの言葉で片づけようとしてしまうのは科学の放棄でもあります。きちんと調査・研究を重ねれば理論的に証明できることもあるので、科学的見解に立つ者にとっては危険な思想と言えます。ですが、科学者の中にもこうした思想が生まれるほど、現代の理系分野でも基礎的理論は文系分野に接近しているものでもあります。しかし、正しく言えば接近したのではなく、元の学問的な「真理への追求」という原点に戻りつつあることを示唆しているように思います。

例4:生物学『世界は分けても分からない』福岡新一著

この著書で、福岡新一さんは「生物学においても調べれば調べるほど新たな知見を発見することはできるが、同時に新たな謎が生まれる」と主張しています。科学といえども万能であるわけではなく、たとえ世界を言葉で分けていったとしても、すべてを理解できるわけではないと言えるでしょう。一概に文系や理系といった言葉の分節化に影響を受け入れてしまうのも、これは科学的、学問的な態度といえるのでしょうか?こうした言葉のもたらす影響を受けている学生が多くいるのもまた事実ですが、そのことは下記にて改めて述べたいと思います。

例5:情報工学『魔法の世紀』落合陽一著

情報工学の概念と芸術が如何に生まれ、関連していくようになったかをコンピューターや芸術の歴史から紐解き、今後は「魔法の世紀」≒「奴隷の世紀」になっていくのではないかとしています。「魔法の世紀」とはデジタルネイチャーの世界であり、デジタルネイチャーとはこれまで画面といった二次元上に表現されていたデジタル情報がリアルな世界にも表出され、両者の区別があいまいになっていくような世界観です。これまで「神の脱構築がなされてきたが、今度は人間の脱構築」が進むとし、「人間性を捧げる」という言動を著者である落合陽一さんは頻繁にしています。この「魔法の世紀」が「奴隷の世紀」でもあるのは、今後ますます技術のブラックボックス化が進み、資本主義(ピケティが言うような富の集中と格差の拡大)の波に乗り、中間層の職は奪われていくということを表現しています。落合陽一さんは思想と情報工学技術を併せ持つ者を増やしてく必要があるとし、「奴隷の世紀」から「魔法の世紀」の道筋を描いています。

References   [ + ]

1. ただし、正しい答えが存在しないということではなく、数学的な体系としても統一的な真理を描くことができないと証明されてしまっただけであり、当然、何かしらの前提を策定することによって解を導くことは可能であり、「なんでもいい」といった相対主義を主張したいわけではない。